昭和五十七年一月二十三日 朝の御理解
x御理解第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
せっかく信心をさせて頂くのですから神様のおかげを充分に頂きたい。そして、それこそ慢心が出るくらいな大霊験を頂きたい。私はいつもそう思います。ところが成程、合楽教会ではこの様におかげを受けておりますけれども、どんなに受けても受けても私はこれで済んだとも、これでよいとも思いません。
教祖様のお言葉の中に「今、中」という言葉があるそうです。私は実際見た事は無いのですけれど、「今、中」と。「いつも、今中であれ」と、今が真ん中、と。「今が苦労の真ん中かいな」、という言葉がありますけれども修行でもそうです。もうこれでも済んだ、じゃない。まぁだ、今、修行の真ん中なんだ、と。おかげを受けた受けた、と人からいうなら、羨ましいようなおかげを蒙っておるけれども。
昨日、名古屋の方から手紙に、先だってからお参りをさしてもらって、もう本当に全国で、お徳の高いとか、御比礼が輝くとか、教会はもうそれこそ全部回って、そして本当な信心は、真の信心は、と探し求めておられれる方達が一行、東京から五、六人でしたかね。東京、名古屋、あちらからみえました。その中の一人の方が手紙をよこしてる。まさしく現代の金光教で、合楽が日本一だ、という意味の事が書いてある、ね。だから、たとえ今いわれる、日本一だという事になって、これでよいという事はないのである。限りがない、ね。いわゆる「今、中」である。
私はこの四十五節を頂きます時、すぐ「今、中」という事をいつも思うんです。四十五だ。五という事は真ん中という事である、ね。もう、始終、真ん中。ここでは、人から先生と言われたり、ね。まあ、お金ができたり、物がでけたりすると頭を下げるという事を忘れる、というふうに仰っておられますが、確かに実れば実るほどかがむ。稲穂のように。信心の内容が出けてくれば出けてくる程、私はこの「今、中」の精神というものが段々出けてくるのじゃないか、と思うですね。修行もまぁだ真ん中。これでよいとは思わない、ね。おかげもまぁだ「今、中」だ、ね。今が真ん中だ、と、ね。そして、思わせて頂くのは、本当に慢心が出るほどしの、まあ、いうならおかげも頂いてみたい、触れてみたいと思います。ですから、そこまでのおかげを頂く為にです、いわゆる「三宝様を踏むな。三宝様踏むと目がつぶれる。」と昔から云う、この三宝様、というのうは、仏教から出た言葉だと思います、ね。「三宝」というのは、「仏・法・僧」と言われますね。これはまあ、仏教の信心の一番肝心要の所を、ね、まず、仏様をわかり、仏様を大事にするという事。法、いわゆる教えである。いよいよ教えを大切にせよというのである。
「僧」というのは、それを取り次いで下さる。いうなら「お坊さん」。皆さんでいうなら「お取り次ぎの先生」、ね。天地金乃神という事をいよいよ分かったら、天地金乃神様の御心を対するという事が、神様を大切にする事、ね。「法」というのは合楽でいわれる「御理解」である、ね。その御理解を大切にするという事である。「僧」というのは、まあ、皆さんがここで合楽の御信心を頂かれる方達は皆、いわゆる、親先生を大切にされます。「生神金光大神の手代わりだ」という事が段々わかってくるから、いよいよ大切にされます、ね。だから、確かにこれだけの事を大切にしていくという事なんですけれども、大切にする心がね、又、大切にされなきゃならんのです。
私の御部屋の入り口に四方庵とある。これは神様からz『四方八方』という事を頂いたんです、ね。「四方八方に広がる」という意味です。「四方」というのは、「四」というのはあんまり誰でも好きな言葉じゃないですけれども、その「八方」の広がる為の前提としてやはり「四方」が必要であると。「四方庵」と額がかかってますよ、ね。だから、いわゆる、「三宝様を踏むな。三宝様を大切にせよ。」という、まあ、仏教的な生き方からすると、その、勿論、三宝様をいよいよ大切にするという事、ね。
天地の親神様の御恩徳が解れば解るほど、天地の親神様のお働きそのものを大切にする。それを合楽では「成り行きを尊ぶ」とか「大切にする」という。又は神様がお恵み下さった、いわゆる、御物をいよいよお粗末にしてはならない、と。と、いうような信心が段々出けてくる。と、同時にです。いわゆる、「おかげは和賀心にあり」と仰せられるのですから自分の心をいよいよ大切にしていく。この「四つの宝」が段々出けてくると、もう間違いない「八方」のおかげが頂かれる。四方八方広がりのおかげが頂かれる、ね。
いわゆる「天地の親神様を大切にする」という事は、まずは天地の親神様の御心が解らなければいけない。私は、これは昨日神様からヒントを頂いて、はあ、自分の信心を振り返ってみて思うのに、私は大体「けちんぼ」だろうか、と思うてみる事が時々あるです。ね、もう私はほご紙一枚でも粗末にはしないです、ね。これは物やら食べ物だけの事じゃない、ね。米一粒でも押し頂くという心、かというて、んなら、まあ電気なら電気と、もうそれこそ、まあ、あの全館もう明、明と電気がついて賑わっておる時には、これはまた、こんなに有難い嬉しい事はないですね。どんなに電気を使っても有難いでしょう、ね。全館が賑わっている時ですから。
けれども例えば、それは五燭光の小さい光でもです、ね、無駄な所についおておるのは、私はこれは大げさな表現ですけども、自分の身を削られる思いが致します。本当です。
私、この事を思うてですね、ははあ、これは天地人一如というおかげを段々私は頂いておる証拠だなと、ね。神様が自分のものを大切にして使ってくれと。今度は又、それこそ自分の持っておるもの、大変なおかげの為にぎょうし(行使)してくれ、いうなら沢山な電気を使わなければならない様に、ね、繁昌のおかげを頂いておる。必要な所に、もうそれこそ満艦飾の様な電気が輝いておる。もう、こんなに嬉しい事はない。これは私が嬉しいと思うのです。そして又、いらぬ所に電気がつけ…‥これは電気だけの事じゃありませんけど。こんな所へこんなお粗末が…‥と思うと何か身を削られる思いがする。だから大切にする。ははあ、これは私が身を削られる思いがする。私が嬉しいという事が天地の親神様が身を削られる様な思いで、粗末な事に使う事をお嫌いになっておるんだなあというふうに思う。
昨日からそれをしきりに思うたら今日の御理解でした、ね。皆さんどうでしょう、心の使い方が足りないです、ね。お金でもいくら使うたっていいです。生きた金、必要な金なら、又使えれる金が有難いです、ね。けれども、無駄な事にね、いうならば浪費するという事は、これは天地の親神様の心がわかればわかる程身を削る思いがする様に、甘木の初代が、それこそ枯葉枯れ枝、一枚一本でもお粗末にされなかった、お粗末をしておると非常にお叱りになったという事で御座いますけれども、おそらく自分の身を削られる思いでおられたのではなかろうかというふうに思いますね。天地の親神様の御物を大切にするという事、これがいうなら三宝様踏むなという第一の、神様を大切にするとはそういう事だと思う、ね。合楽で今言われる合楽理念である。これはもう絶対の助かりの理念と言われる、聞いてはおる、知ってはおるけれども、それを行じないならばその法というものを御粗末にしておる、という事になるからおかげにならん、ね。しかも合楽で説かれるその法というのは、その気になれば誰でも行じられる。心行信行、家業の行という、火の行水の行せよとは仰ってない、ね。自分の心でする事ね、又は、信心の行です。皆さんこうして朝参りは信行になるでしょう、信心の行です、ね。心でする行は又限りがないのです、ね。そういう私は修行に本気で取り組む。御用そのものが神様の御用をさして頂いておるんだという、我情のない、我欲のない、いうならば御用でなからなきゃならないという事、ね。と同時に、自分の心をいつも見極めて大切にして行くという事。四つの物が合楽教会では大切にされなきゃいけない。そこには、もう必ず広がりに広がるです。いわゆる八方広がり、八方に広がって行く所の四方が土台にまずはならなければならないという事、ね。皆が大きなおかげを頂きたいと思う、いうならお商売をしとるなら大繁昌のおかげを頂きたいと思う。その繁昌する手立てがあるなら、もうあらゆる手立てをもって、それを商策というか商法というかね、まあ、致しますけれども、商法も良かろう、勿論、精進も必要ですけれども、もう、その根本になるところのコツの四つの宝を大切にして頂けれるおかげであって、本当の意味のおかげであると私は思います、ね。いうなら、合楽では四宝様踏むな、という事になるじゃ。ここでは三宝様踏むなと仰せられる。勿論、これは仏教から来た言葉でしょう。合楽では、この四方様を大切にして行く信者にお取り立て頂いて、まず神様の心がわかり、わかればもう大切にせずにはおられないのである、ね。合楽理念をいよいよね、マスタ-させてもらうだけではなくて、それをいよいよ実験実証さして頂くという事ね、そしてまあ思います。本当にね、慢心が出るくらいな、いっちょ、おかげを頂いてみたいなあと思うです。ところがなかなかもって自分という者を見極めて行く時にです、又、そのおかげを落とさんですむおかげを頂く事の為にもですね、修行も今、真ん中ならね、おかげもまだ真ん中だという、まあだ、これでは足りない、これでは足りないという修行、神様は限りない無尽蔵に下さろうとするおかげを頂く為には、もっともっと、いうならこの、四宝様踏むな、という事におろそかにしてはならないという事になって来る。ここである、いうならば先生と言われたりね、まあこう、チヤホヤされると頭を下げる事を忘れると仰るがね、本当に頭を下げる事を忘れるという事は中味がない証拠である。中味がない時である、ね。白穂の様なもんである、空穂の様なもんである、ね。いよいよ中味を、合楽では四宝様踏むな、四宝様の心がわかり、それをいよいよ大切にして行く事が、そのまあ、私合楽理念だと思うです。合楽理念の実験実証さして頂いておると、昨日、福岡からお参りをして来た、くの一会に時々出られて伊藤さんにお願いをしとったら、まあ大変なおかげを頂いたからと云うて御礼参拝をして見えた。昨日、おとといでした。丁度繁雄さんが、その日は昼頃まで、何かインタビュ-があっとったから十二時頃まで残っておられた。で、只今から帰るとお届けをされる。すぐその後にその方が見えて色々お届けをされた後に、実はこの正月から不思議な不思議な有難いお夢とはこういうお夢だろうか、というもののお夢を頂きました。伊藤さん達が言われる御神夢とはこういう事じゃろかと思うと言うて、まあ色々はっきりと頂いておるというてお話されたんですけれども。丸い石がそこに落ちておった。その丸い石を拾ったところが素晴らしい石だから、それを自分で手で一生懸命研いておった、手で。そしたらそいが、いつの間にかね、御地蔵様に変わって手を引いた御地蔵様に変わったというお知らせじゃったげなもん。だから私その方に申しました。今、あなたの前にお届けされたあの人は久富繁雄さんというて、ここでおっちゃま、おっちゃまて皆から言われておられる方で、三十年間からの信心を続けておられる方なんですけれどもね、この方はやはり地蔵の徳を受けていきよんなさるなあと思う、というて繁雄さんのお話をさせて頂いた事でした。
お願いをしてこんなおかげを頂いて、こんなおかげ頂いてという事だけが信心ではなくて、昨日も申します様にね、兎に角三十三年間を一日の如く、こうやって貫いておられる。勿論、その間には病気をされたり怪我をされたり、しかも、帰りの合楽からの御用を頂いて帰りに死ぬか生きるかという様な事故にあわれたり、けど、そこんとこで、ひとっも曲がっておらなければ折れてもおられないという事ね。その辺のところがね、まあ、昨日御理解でいうと常信であって、常の信心がでけておるからその受方がでけるんだとね。まあ、そういう様な、あのう御取り次ぎさせて頂いた、後頂いた事がね、てへんに奉るとこう書くね、いうならばどういう事でしょうか。おかげを頂く為に一心不乱にお参りをしておるという人はあるけれども、自分の、いうならば全身というか、全霊というか、それをお教会、というよりも、親先生にという事じゃないでしょうか。こう捧げ切っておられるという意味だと思ったんです。そこに地蔵の徳が自然と共のうて来た。それは、いうならばその、田中さんという方だったんですけど、が頂いておられる様に、その、こう御取り次ぎの、この繁雄さんのお届けされた。そして田中さんが頂かれた久富とも繁雄さんとも頂いてないけども、その事だと私は思うたんです。そういうつながりというもの、必ずいつでもあるわけですけれども、いうならばこの「石」というのは、私は「恋し」だという、ね。合楽の信心というものに段々傾倒していくにしたがって、いうならば合楽通いがもう、いうならば慕わしうて慕わしうて、というもの。いうなら「憧念心」。神様へ対する憧念心の心。親先生に対する憧念心の心が、こうやって小石を研いておられるのじゃなかろうか、ね。研いていくうちに、それが地蔵の徳ともなった。「手をひいている」という事はその周辺に人が助かるようなおかげも、お徳も力も段々頂いていかれる事であろう、というのでございます、ね。
私、今日皆さんに聞いて頂く。「四方様を大切に」と例えば今日は「三宝様を大切に」ですけど、合楽では「四方様を大切に」ね。そこから、んなら、その「四方様とは何ぞや」という事になる。天地の親神様であり、御理解であり、合楽理念であり、ね。いうならば、いわゆる親先生である。しかもその親先生との間に交流するもの。それはもう、一日、合楽の親先生の顔見らんなら、もうじっとしておられんというような、ね。憧念の心。一日、御理解頂かなかったら、もう心が淋しいという位な信心になっていく、という事が、三宝様を大切にする事じゃないでしょうか。それに、いよいよもって我心を見つめさしてもろうて、自分の心をいよいよ大切にしていくという事、ね。そこから、いうなら頂けるおかげであって、ね。おかげを落とす事のないだろうおかげ。いよいよ限りないおかげにつながっていくおかげが頂かれると思うです。
皆さん、まずはね、ひとつ慢心が出る位なおかげをまずは頂きなさいませ、ね。そして、頂きよるうちには、ちゃあんと今度は自分で自分の心の中に感じる事が出来てくるようになる。それこそ今日、私が感じておりましたら、朝の御理解でしたけれども、とにかく、ふな。電気なら電気のいらん所に使うておる時は、本当に自分の身を削られる思いがするです。というてあんたどん、こげん時つけて、というてやかましいうても出来んから、まあ、いいもしますけども、ね。ま、お詫びをしていくかというて、なら、ね。百万燭のおかげをここに明々と電気をつけても、それが必要な時につけてあるなら、また、今だ反対に嬉しうてこたえん。神様ってそんな方です、ね。だから、そういう所から、まずひとつ信心のいうならば練り直しというかやり直しというか、ね。を、していかなきゃいけない。四方様が大切にされていきよるかどうか。その、いうならば信心をいよいよ極めていこうという構えが出けておるかどうか、思うてみなきゃならんと思うですね。どうぞ。